優秀な旋盤工
父は腕の良い旋盤工でした。日本に帰国後はあちこちの鉄工所を渡り歩いていたみたいですが、どこでも仕事は出来るし真面目だから重宝されたようです。昭和33年ごろは岩戸景気がそろそろ始まりそうな時期で優秀な職人さんは引く手あまたな状態が続いたそうです。
旋盤とは金属工作物を回転させてバイトという刃物で削っていって加工する機械です。金属加工物はモーターで回転させて固定されていますので刃物であるバイトを前後左右に移動させて削っていくのですが、それが非常に難しいのです。
まず金属加工物の質によってバイトを選ばなければなりません。柔らかいか硬いか、粘り強さはどうかなどによってやり方も変わってきます。また削っていくとだんだん細くなるので回転数の制御も必要です。当時の旋盤は天井にモーターが置かれていてそこからぶら下がっているベルトを引っかけて旋盤を回させていたのです。
モーターの回転はほぼ一定で違う回転数が欲しい時はプーリーの大きさを変える事によって制御していました。もちろん左右に移動させるスピードによって出来の良さが変わってくるのです。
今でしたらコンピュータを使って自動的にしてくれる事を、当時は全て人のカンと経験によって制御していったのです。ですから職人さんの腕の良しあしによって一日に仕上げられるスピードも質も違うそうです。
旋盤工と言ってもこの頃の職人さんは旋盤だけでなく、ボール盤(穴をあける機械)やフライス盤(旋盤と似た機械で、こちらは刃物を回転させて工作物に溝を彫ったり平面にしたりする機械)の操作も出来なければならなかったそうです。
これらの機械に取り付ける刃物も今でしたらホームセンターで手軽に良いものが買えますが、そんな便利なものはなく刃先の調整から焼入れまで全て自分でしてたそうです。
機械工作に関する事は何でもやらされたらしいです。ちなみに家でも包丁をよく研いでくれたのですが切れすぎるくらいよく砥げたので本当に腕は良かったのでしょう。
父の腕はそこそこだったみたいで、実際1958年(昭和33年)6月の給与は手取りで13,044円、7月でも11,858円だったみたいです。
当時の大卒公務員の初任給が9,200円、サラリーマン平均で16,608円なので、23歳で中国からの引揚者としてはかなり良い方だったみたいです。ただ飽き性だったのか放浪癖があったのか、二年と同じ場所には居なかったみたいです。満州からの引揚者だったので、そのあたりの差別的なものもあったみたいです。
その後大阪に帰ってきて母とお付き合いしていた時、祖母(私の母の母)から「仕事を転々をしているみたいだけどあれやってこれやってダメだったではなく、同じ職種で給料も上がる転職をしているみたいだから真面目な人なんでしょう。」という事で許可を得たそうです。
優秀な職人だったので独立してからも仕事はたくさんもらえた上に住み込みの工員さんも二人ほど雇ったりして、それなりに成功を収めたそうです。ただ、経営に関しては才能が無かったのかそれとも人が良いのか、昭和39年(1964年)ごろに36万円の不渡手形をつかまされて借金を背負ったそうです。当時の36万円は長屋が一軒買えたぐらいの価値があったそうです。これはなんとか返済できました。
それからも労働争議の幹部にされて失業したり、まだ開発中の機械を高額で購入させられたりして、そのたびに母があちこちに頭を下げたり駆けずり回って事をなんとかしてきたそうです。
いまだに「ちゃんと仕事だけをしてたら家が三軒は買えたお金があったのに!」と母は愚痴っています。
でも仕事というか、機械や電気の事が好きな父は好奇心旺盛で手先の器用な人だったんでしょう。買ってきた機械を自分で改造して使いやすくしたりするのはおちゃのこさいさい、何でもする人で年取ってからもコンピューターをそれなりに操っていました。
特許や実用新案なんかも取ってなんらかの名を残しています。ただ金儲けは出来ない人だったみたいです。