天津外国語学院留学生部 到着
私が天津に降り立ったのは1986年9月1日でした。
北京から列車に乗り、途中で油田の炎が見えたのを覚えています。列車で一緒になった南開大学の日本人留学生に助けられて駅からタクシーで天津外国語学院に着きました。北京で見慣れましたが、駅では人が多くごちゃごちゃしていて何がなんだかわからないうちにタクシーに乗せられました。
ここじゃないよ
学校の留学生部になんとかたどり着き書類を出すと、ここじゃないと言われました。実は天津外国語学院には市の中心部の馬場道にある本校と北部にある分校の二つの校舎があったのです。分校は付属中学、高校があり、留学生が増えたので前年からそちらにも留学生部を作ったそうです。私は分校の留学生部に配属されていたのです。
すぐに分校に連絡して迎えに来てもらったのですが、それまでの一時間ほどは隣の部屋で横になって休んでいました。分校の先生はまだ中国語もわからない私に親切でした。
自分でやるのは難しい
留学には団体で申し込む方法と個人が手配して申し込む方法がありました。私は大阪の領事館に父の知り合いがいたので個人で申し込み留学しました。なので中国までの行き方、留学に必要な書類、生活用品、お金についても全て自分で調べて手配をしました。団体での留学でしたら学校までは団体の方で全て面倒を見てくれたので、こんな行き違いもなかったみたいです。
初日は一人ボッチ
分校の留学生楼に着くと校長先生が迎えに来てくれました。さっそく部屋に荷物を置いてホッとしました。9月1日に着いたのは私一人でした。団体の方は二三日後とのことでそれまでは一人だったのです。
ショックの晩ごはん
晩ごはんは食堂に行って食べたのですが、ご飯と、卵とトマトのスープでした。このスープが美味しくなくて、ラー油みたいな油も浮いていました。しかも食器が洗面器みたいな蓋のついた金属製で、なんとも言えない惨めな感じを受けました。部屋に帰っても二人部屋なのに一人しかいなくて寂しくて、泣きはしませんでしたが不安が頭の中をグルグル回っていました。
三カ国の留学生
次の日から他の留学生も来るようになり、だんだん人が増えてきてホッとしました。この分校の留学生は日本とカンボジア、北朝鮮の三カ国の人が一年間一緒に学ぶ事になりました。
カンボジアの留学生
カンボジアの子は女の子二人で16歳と13歳の姉妹でした。カンボジアは当時まだ内戦中で、二人ともジャングルから逃げてきたと言ってました。
北朝鮮の留学生
北朝鮮の留学生は、若い大学生ぐらいのグループと40歳ぐらいのオッサングループの二種類に分かれていました。若いグループの子たちとはそれなりに交流しましたが、オッサングループとはほとんど交流はありませんでした。というのも、オッサングループは朝鮮語しか話せないし中国語はなかなか上手くならないし、交流したくでも出来なかったのです。
若者同士で
若いグループはすぐに中国語も上手くなり、少し英語ができる子もいたので一緒に公園に行ったり買い物に行ったりしました。ただ、やはり外国との交流を好まないみたいで、監視役のリーダーからあまり深入りしないように注意されたりして、最後までギクシャクしました。
留学生楼と室内
3階が日本人とカンボジア人留学生のフロアで、教室は廊下を挟んだ反対側にあり、授業開始ギリギリまで部屋にいることができました。部屋は二人部屋でベッドと机と洋服ダンス、本棚がそれぞれ二つあり十畳ぐらいの広さでした。ただどういう造りなのか、部屋の広さが部屋によって極端に違うのです。
私達の部屋は十畳ぐらいでしたが、別の部屋は十四畳ぐらい、また別の部屋は八畳ぐらいとマチマチなのです。狭い部屋に当たった人たちからはブツブツ文句が出ましたが、どうしようもなかったです。トイレやシャワー、洗面所は共同でした。
日本人留学生
同室の人は企業派遣で来ていた三〇歳ぐらいの人でした。結婚していたので妻子を残しての単身赴任でした。他の日本人留学生は男性四人、女性五人の計11人でした。とりあえず一年間はこのメンバーで留学生活が始まりました。
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