昇平大阪開拓団

引揚記録-昇平大阪開拓団-表紙
昭和27年版 引揚記録 昇平大阪開拓団 表紙

満蒙開拓団
満蒙開拓団をご存知でしょうか。1931年から45年の間に国策として満州やモンゴルなどの現地に入植して、農産物の生産向上と地域の安全を担う屯田兵の役割を任された集団のことです。その人数は終戦までに27万人が移住しました。ほどんとが長野県や宮城県、山形県などの農地を持たない農民の次男三男などが広い土地をもらえて独立できると応募したのですが、中には国の計画に基づき市町村などがノルマ達成のため無理やり行かされた人も多かったみたいです。
ただ、開拓と言っても北海道屯田兵やブラジル移民のように何も無い原野を一から開墾する箇所は少なく、ほとんどが中国農民が開墾した箇所を追い出して取り上げたり、格安で買い取ったりした箇所でした。ただ、そのような場所でも土地は痩せているため、入植した人たちはやはり苦労したみたいです。

昇平開拓団記録より 団員住居
昇平開拓団記録より 団員住居

第十二次昇平大阪開拓団
大阪からも何度か募集があり祖父は第十二次昇平大阪開拓団に応募しました。昇平開拓地はハルピン市から西北西約130キロの満州平野の中心部で、一望千里の草原でなだらかな起伏のある場所です。交通はハルピンから安達までは列車が通っていて、そこから23キロの道のりを馬車または徒歩で向かいます。緯度は北海道北部と等しく、大陸性気候で大気は乾燥し、気温は夏は涼しいが冬は想像を絶する寒さで、草木はあまり高く伸びない地域です。
開拓団の総面積は10723町歩(106.35平方キロ)、計画戸数400戸ですが201戸しか入らなかったみたいです。人口は885名でした。

祖父は農民ではありませんでしたが、技術者も兼ねて募集したみたいです。自動車の運転手としてそれなりに良い生活をしていた祖父がなぜ募集したかは父からの記録も残っていないのですが、伝え聞くと色々と人には言えないような事情があったみたいです。

父の手記では先発隊として祖父が二ヶ月ほど先に行ったそうで、祖父の母、祖母(父の母)、父、妹の4人が1944年2月末に満州へ行くことになりました。

父の手記から
開拓団に応募した家族の人達と一緒に、大勢に見送られて大阪駅から汽車にのり、下関で汽船に乗り換え、また釜山から列車で何日かかかってやっとハルビンに着きました。開拓団会館のような処で一泊、翌朝チチハル方面行の列車で安達街へ、そこから荷馬車に乗りかえ夕方昇平鎮という村に着きました。真っ赤な夕陽が地平線に沈んでいく光景、「ああ満州へ来たんだ」と子供心に覚えている。昭和19年の3月のことでした。

昇平開拓団記録より 団員住居
昇平開拓団記録より 団員住居

現地では接収した中国農民が使っていた小屋を割り当てられ一家五人の生活が始まったそうです。
父の手記から
私達一家に与えられた住居は、勿論中国人の住んでいた家ですが、南向きのいり口をはいるとすぐ両側にかまどがあり、その奥のちょうど真ん中に左右に扉があり二軒向かいあっていました。扉の中はまた両側にオンドルといってかまどで炊いた煙が床を通り床暖房の役を果たしています。その間の土間に煉瓦で作ったストーブが有りました。

その後二人目の妹も生まれ新しい生活に慣れてきた頃に終戦となりました。

在満国民学校全景
在満国民学校全景

終戦時後の引揚
8月9日に日ソ戦が始まってからすぐに開拓団本部は情報収集や幹部会議を開き、早々にまず老幼婦女子を引揚させる事になったのですが周辺の治安悪化、敗戦となったため、8月22日に全員引揚開始となりました。塚本団長を中心に入植地から脱出し、安達、ハルピンを経由して日本に帰るのですが、その途上の苦労は多分に漏れず、脱出時895人のうち1955年2月までに無事に日本の土地を踏んだ人は約半分以下の390人、365人が亡くなり140人の行方不明(届け出が無い人を含む)でした。子供はもっと少なく、開拓団があった昇平在満国民学校の在校生は終戦時189人でしたが、1946年10月、無事に日本へ上陸したのは38名でした。他は引揚中に病死したり現地に残留して以後行方不明になったのでした。行方不明の中には父のように1957年までに帰れた人もいましたが、残留日本人孤児としてその地で成長した人もいました。

1974年慈興会慰霊祭 昇平支部有志記念写真
1974年慈興会慰霊祭 昇平支部有志記念写真

その後
帰国後は大阪府引揚援護局からの差し入れと見舞金、引揚者住宅の斡旋などのある程度の保護はありましたが、多くの人は全財産を置き去りにしたため苦労は絶えなかったみたいです。昭和36年には大規模な慰霊法要が執り行われ、大阪市長からの追悼の辞も送られたみたいです。その後も毎年法要などが行われ、私も一度法要に参加したこともありますが、当時の団員も少なくなられたみたいで、今はどのようにされているのかわかりません。

満蒙開拓平和記念館前に立つ父
満蒙開拓平和記念館前に立つ父

満蒙開拓平和記念館
満蒙開拓団についての詳しい情報は、長野県阿智村にある「満蒙開拓平和記念館」で見れます。一度訪れてみてはいかがでしょうか。場所は中央道「飯田山本IC」から車で10分。電車だと飯田線「飯田」駅からタクシーまたは路線バスで30分ぐらいです。近くに昼神温泉もあります。

中国,大阪,,祖父

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