父の自叙伝 1953年版その1 難民となって
父は中国からの引揚者でした。その時の事を何度も自伝として書き残していました。これは見つけた中で一番古く、22歳の時の手帳に書かれたものです。全三回に分けてアップします。
なお、一部誤字などは修正していますが基本的には手帳に書かれた仮名遣い、言葉を使用しています。現在の基準では合わない部分もありますが本人の表現をそのまま使用いたします。
1958年
謹賀新年
私は今日まで家庭と言う雰囲気をどれ程あこがれ望んで来たか知れません。そして今日もまだそれをかなえられずこれから先も、先で一年位いはかなえられないでしょう。
幼年時代は私にも家庭がありました。父と母、それに妹。特に祖母さんは私をとても可愛がって下さいました。私にはその時分の事がついこの間の事のように脳裡に浮んで来るのです。食卓を囲んで、貧しい食事ではありましたが何となく楽しかった思い出です。今考えるとその時が今迄の私にとって一番幸せだったでしょう。
十才の誕生を迎えてまもなく終戦となり、私たちはその幸福から別れをつげねばならなくなりました。外地に居た私たちは五六里離れた町の難民収容所に収容され、そこで集団生活が始まりました。長い長い床の上に何十人、いや百人以上だったでしょう、が枕を並べて寝起きしていました。そこで可愛かった妹と、私を最も大事にしてくださった祖母とが死にました。別に葬式をしたわけでもないのに家族が二人減ったわけです。
残った私たち四人(父・母・妹・私)が又ハルピンに移される時の事です。満州の冬は早くやってきて十二月の頃にはもう零下二十度と言う寒さです。そんな時折悪く私のすぐ下の妹が時節はづれのハシカにかかりました。今まで寒いと言っても家の中に居ましたので暖かかったのですが、移動の為汽車に乗らねばなりません。母が、妹を背負いその上から大きなふとんをかぶせ、まるで大きなまりの様な格好で駅まで歩きました。村を出る時私たち七百人程いたそうですが、この時は五百人程になっていました。私も食糧等持てる丈持って列に加わっていました。
駅でづい分長い間待ってやっと乗れたのは客車ではなく、荷物をつむ貨車でした。貨車の中は一面真白に霜がはりつめ外と変りありません。当時満州は混乱していた為夜は列車が走らないとの事で一晩その中で寝ましたが、妹は寒い寒いと言って泣き通しでした。
私たちは下にむしろを敷きその上に妹をねかせました。こうすると少しは下から冷えるのが防げるのです。でも私たちの尻は凍りそうでした。朝になってやっと汽車が動きましたが、動きだすと冷めたい風がすき間から入り中の人は一所に身をすり寄せてそれを防ごうと努力しました。一日汽車は走ったり止ったりして夕方になって車の音が変り、それがスンガリー(松花江)にかけられた長い鉄橋を通っている事と分りハルピンに着いた事で皆はほっとしました。
その時から妹の症状が悪くなり、母の背で火のついた様に泣き出しました。そして水がのみたいと言うのです。「水!水!水がのみたい。」と言って泣くのです。母は「もうすぐ汽車を降りたら暖いミルクを飲ませてあげるからもう少し我慢しなさいね。」となだめましたが、「水!みず!」と泣くのを止めません。私はそれがつらくて「誰も水を持ってないの!!持ってたら飲ませてやりよ!」と半分泣声でおこる様に母に言いました。だがみずがあるはづがありません。水筒の水は皆凍っているのです。汽車は止まったり、又バックしたり行ったり来たりしています。
しばらく妹は泣いていましたが急に泣くのをやめました。お母さんはほっとして背中をのぞこうとしました。その時妹がはっきとした口調で「お母さん。済みませんがお水を一杯下さいな。」と言うのです。
私と妹は八つと年が開いていて妹はまだ三歳位でした。それなのにどこでこんな言葉を覚えたか、はっきりそう言ったので母もそしてその囲りの人もびっくりしました。
「お母さん、済みませんがお水を一杯下さいな。」
又同じ言葉をくり返しました。この時誰かが水筒をローソクの火であぶっていました。その人は母を呼んでこれを飲ませなさいと言いました。
妹はすでに眼を閉じていました。何とも言わなくなっていました。ローソクの火の所で父は水筒の蓋に受けた水を妹の口の所に持って行き流し込みました。妹はそれが喉を通るとそのまま息が絶えてしまいました。
朝になって、一日二夜閉められていた扉が開かれ、私たちはハルピンの地を踏みました。降ろされたところは貨物駅で、そこから馬家溝(マジヤコウ)と言う所に在る収容所まで歩くのですが、皆で相談して何台かの荷馬車をやといました。
母はずっしりと重い妹を背にして場所の中ほどに座り私は一番後の方に座りました。後に残る樹氷の並木を見送りながら、昨夜の事を思い出していました。
一時間ほど馬車にゆられて着いたのは元日本人の学校だった三階建の建物です。そこには私達と同じようなすすけた顔が三三五五出て来ました。私たちは教室があった広い部屋をあてがわれ七十人位づつに別れました。通路をはさんで畳の心だけのをぢかに敷いて寝ることになりました。中央あたりに煙突も立てず拾ってきた木切れをもやしているので部屋中に煙がこもり、北向きの大きな窓は氷が厚くはり、暗く、中に居る人も不安と疲労で、まるで泥沼の中のようでした。私もあてがわれた場所で母に言われるまま横になりそのまま眠りました。
その間に妹はどこかに処理したらしく、目が覚めた時には屍体はありませんでした。
朝食が出ました。高りゃんのもみのとれていないような真赤なごはんにつけものでした。そこでは毎日そればかりでした。
【続く】