父の自叙伝 1953年版その2 難民生活
前回からの続き、第二回です。
次の日柴を拾いに校庭に出てみました。すると昨日気づかなかったのですが、あちこちに何か積んであるものがあるのです。雪をかぶっているので何だろうと近寄ってみますとそれは人間の屍でした。大きいのや小さいの、男のや女も。それがカチカチに凍って山と積んであるのです。どれもこれもみんな全裸です。私は怖くて走って部屋に帰りそれを父と母に話すと父はこの三階と地下室に屍体室があったが皆一杯になったのであそこに置いてあるのだと話していました。
私は好奇心から友だちと一緒に見に行きましたが途中でやはり怖くて一人でもどってきました。
収容所では虱が一杯わいていました。私たちは毎晩ねる前に油燈の火でシャツの縫目に並んでいる虱をやいたり爪でつぶしたりしてとりました。爪が血で真赤になり、血のやけたいやな臭の煙が上がります。一通り全部とり終わっても次の晩には又同じ位ついているのです。私たちがいくら一生けん命つぶしても隣の人が全然とらず、服の上まで白い模様のようについているからです。
三日程経って父は日傭い人夫として働きに出ました。私と母は持ってきたわづかなお金を基に商いに出る事にしました。
母は餅を百程買い私はアメ玉を三百匁買い、机の抽出しのような箱を首からぶら下げその中に並べました。そしてなるべく賑かそうな所に立ちました。母と別な場所に立って誰か買ってくれる人はないかとただじっとしているだけでした。生れて初めてこんな事をするので要領も分らず、手や足は冷たくしびれています。半分泣きながら立っていると、二人づれの学生が五つ程買ってくれました。その時はうれしくて早速母に知らせようとさっき別れた所にもどり母の行った方をさがしました。母はすぐ見つかりましたがまだ一つも売れていませんでした。私は売れた事を母に話すと、「偉い偉い。」と言ってほめてくれました。それから夕方まで並んで立っていましたが一つもうれませんでした。
収容所に帰って部屋の人に買ってもらったりしてやっと半分位残りましたが、次の日から私は行かなくてよい事になりました。母はそれでも一週間程町に立ちましたが思うように売れなかったようです。
大晦も近づいた時、団の人の紹介で元日本人の食堂を借りて餅屋をする事になりました。父と母ともう一人男の人とが夜おそく迄餅をつき朝になって母がそれを売りに行きました。それも正月が過ぎると売れなくなり一か月もしないうちに又収容所にもどりました。虱のわいた、運動場に屍体がころがっている収容所には帰りたくありませんでした。それに母が食堂に残って女中をする事になったからでもあります。一週に一度母は尋ねると言っていましたが、母と別々に暮らすのがたまらなく淋しく思いました。
一週間経って母が帰ってきました。母は飴棒を三本程くれました。
二時間程で母は帰りました。それを見送ってから私は部屋にもどりしばらくの間泣き止む事が出来ませんでした。
二度目に母が帰ってきた時、母の働いている家の近くに家が見つかったので次の日移る事にしました。
ふとんと少しばかりの着換を橇にのせ坂の多い道を押して行きました。前にロシア人が住んでいたそうですが暗くて小さな家です。町内の共同便所の掃除をすると家賃が要らないと言う約束で同じ村に居た夫婦の人と一緒に住む事になりました。母はよく働き便所はいつ行ってもきれいに掃除されていました。
私は今度は煙草を売ることにしました。朝早く中国人街の朝市に出かけ煙草を仕入れるのです。父と一緒に家を出て、仕入れが終わってから父は職業紹介所に仕事をさがしに行き、私は前に飴を売った時の箱に煙草を並べて売りに歩きました。
前に少し経験して、人の沢山集まる所にでかけました。先ず父がいつも行く紹介所に行きます。そこは殆ど日本人ばかりなので「タバコはいかがですか」「エ~タバコ~タバコ~」と言って歩きます。
紹介所はもう十時近くなると人は皆散ってしまいます。それから街には今度は中国語で「煙巻児、煙巻児」(イヤンジョアル)と言って歩きました。煙草はよく売れて三日に一度は仕入れる程でした。
又タバコを売る間に一週に一度位母の仕事のない日に一緒に燃料を拾いに出かけました。一度私は近所の中国人の子供に「石タンの沢山有る所があるから」とさそわれついて行きました。
それは汽車の機関区でした。中国人は平気で機関車の上に昇り石タンを袋に入れるのですが私は若し見つかると大事だと思い下に落ちているのだけ拾い集めました。そこには沢山の子供や大人が拾いに来ていました。私たちが拾っていると運悪くロシア兵に見つかりました。私は袋をかついて一目散に逃げました。するとロシア兵はマンドリンと言う自動小銃を射ち出しました「ダダダ」「ダダダダ…」と言う音をすぐ後ろで聞いてもうだめだと思い袋と一緒に線路わきの土手の下に転がり下りました。
それから夢中で家まで走りました。そんな事があったからあまり石炭の沢山落ちている所には行かず、公園等で木切を拾う事にしました。
【続く】