父の自叙伝 1953年版その3 母の最後
1953年版手帳の自叙伝の最終回です。
三月になってハルピンに日本人の学校が出来ると言う話を聞き、何か月ぶりかで又学校に行けると言うので嬉しくてたまりませんでした。でも私達難民でも行けるかどうか不安でした。母はどうしても学校に行かせ度いと言い、端布で手吊鞄を作ってくれ。又服も一番よいのを出して用意してくれました。入学の当日、母に付き添われて行きますと、皆じろじろと私たちの顔を見るのです。やはり外の人はどこかあかぬけして又付添人も綺麗な服をきていました。でも何とか入れました。四年生として入ったのですが、算盤の時間に私はそろばんを持って居らず一時間じっとしていました。それでその日帰ってから母に無理を言って私のタバコ収益に少し足してもらい中古を買いました。
学校がひけてからすぐ私は、タバコを売りに街に出ました。
街路樹のどろ柳や楡が芽をふき始めた頃、再び収容所にもどる事になりました。
学校の帰り道に母が待っていて「今日から家が変ったのよ。でも前の収容所とちがう収容所なの。少し遠くなるけどそこから学校に通ってね」と言われました。私は収容所と聞いただけでぞっとしましたが、行ってみると前の所よりうんときれいな所でした。学校で私は友達を作るのにあまり苦労はしませんでした。それは学校に行く様になってからタバコの収入は全部自分の小遣にしていたからで、多少自由な金を持って居たので皆に食べ物を買ってやったりしていました。
新しい収容所に入って父と母も収入がふえたらしくタバコを売らなくても、小便(小遣)はもらえる事になりました。
母は道外と言う所にミシン工として働きました。学校の帰りに一緒に住んでいた夫婦の所を尋ねた時その人は「若い時にやっていた仕事を又始めると死ぬ事がよくある」と話していました。私はそんなバカな事無いと思いました。
仕立屋に通うようになって二十日程して母は風邪をひきました。たいしたことは無いと言ってましたが、でも熱が大分あるので、私が学校から帰ってから御飯をたいたり洗濯をしたりしました。そしてどこにも遊びに行かず看病をしました。一週間程でほとんど熱も下がりました。
満州の春は短くついこの間雪が解けたと思ったらもう初夏のとうで町にはアイスキャンデーの売声もする程です。そんな五月の末の或る日、私が学校から帰ってくると昨日迄ねていたはずの母が外で頭を洗っていました。
「お母さん、そんな事して大丈夫ですか」
「大丈夫ですよ。長い事ねていて頭がくしゃくしゃだから洗ったのよ。これですうっとしたよ」と言って笑っていました。
でもそれがいけなかったのです。次の日から母は又高い熱が出ました。
容態は日増に悪くなりました。私が学校が終わるとすぐ、氷を買いに出かけました。市場に行く途中中国の子供が多勢遊んでいて私を通すまいとするのです。だいたい一日おき位にいました。私は、子供が居る事を知るとすぐ手前の道を曲がり外の道を通る事にしました。それに決まったように子供が遊んでいる日に限って氷は売り切れているのです。ほかの日に行くとまだ沢山あるのにその日に限って売り切れるのです。
売り切れた日は父と私が交代で一晩中水を換えて母の頭をひやしました。
医者に見てもらうと母は脳膜炎だと言いました。熱は下がらず熱の為口の中は荒れものも言えません。そしてよくみずをほしがりました。でも医者から水を飲まさないよう言われましたのであまり飲ましませんでした。「みル~、みル~」と言ってうわ事を言いました。「みず」と言えなくなっていたのです。ある日、母は熱が少し下がりましたのでもうよくなるのだなと思いました。母は外が見たいと言うので少し起して窓から外を見せました。母はうれしそうに見ていました。
それから三日程して朝私が目をさましますと、母は死んでいました。私の眠っている間に死んだのでした。
【終わり】