吉林市立日本人民主完全小学校(日完小)
父は前回の手記のあと八路軍といっしょにあちこち移動していました。その後やっと安定した学校生活が送れるようになりました。今回はその学校のお話です。この学校は日本でも中国でも知っている人がほとんどいない珍しい学校です。このままどこにも知らされず、忘れられてしまうのは残念だと思いましたので、少しでも記録として残したいと思いました。
技術者は残留
8月15日のポツダム宣言受諾後、満州にいた日本人はその地に居ることができなくなり、全財産を置き去りにして難民となって日本へ帰ることになりました。ところが、日本に帰らずに満州にとどまることになった人たちがいました。色々あって日本に帰れなくなった人、中国への贖罪として残った人もいましたが、中国側から残るように命令された人もいました。その人達のほとんどは技術者たちでした。
足りない技術者
当時満州では満鉄を始め、ほとんどのインフラを支えていたのは日本から来ていた技術者、医療関係者だったのです。もちろん現地の人たちもその一端を担っていたのですが、絶対数が足りませんでした。したがって日本人技術者たちは帰国を許されず、そのまま満州に留まることを余儀なくされたのでした。その数は三万人を超えていました。
残留技術者の家族
残った技術者たちの家族は日本に帰った人もいましたが、親子で残った人もいました。そうなると困るのが子供の教育でした。混乱期とはいえ子供の教育を望む親は多く、比較的安定充実した日本人小中学校の建設は切なる願いだったみたいです。
日完小誕生の経緯
吉林省では1948年に国民党軍が敗退し人民解放軍が入り安定すると、「吉林省日僑管理委員会」(後に日本人管理委員会と改名、略称「日管委」)が省政府とかけあい、最終的に吉林市立の小学校「吉林市立日本人民主完全小学校」(以下「日完小」)が吉林市天津路125号に設立されました。この学校は中華人民共和国建国前後の混乱時とはいえ、小規模ながら地方政府が責任を持って設立された唯一の公立の日本人学校でした。
解放直後の吉林市では内戦の傷痕が深く、物資も設備も不足している困難な状況でしたが、「日管委」と中国側の交渉により多大な支援を得る事が出来、1949年初めに先ず延吉にあった小学校の教職員、生徒が転人することで「日完小」は開校しました。
教育内容は日本側の自主管理
吉林市人民政府教育局は「日完小」の人件費と経常費を支給し、中国語教師二人を派遣しましたが、「日完小」の人事と運営、教育内容については一切関与せず日本側の自主性に任されました。生徒の寄宿生活の費用については父母の負担と日本人の募金によって賄われました。中国に残った日本人は各地にちらばっており、それぞれの地で教育施設を建てる事は困難であるため、生徒のほとんどは寄宿舎に集まって集団生活を送る事になったのです。
現地に溶け込む日完小
学校は、学校長には石田幸雄先生(戦後、琿春方面の日本人居留民のリーダーとして活躍)が就任し、気賀澤文巧先生(旧制中学教師、旧日本陸軍将校)、小野節先生、西山勝先生、佐藤キヨおばさん等十数人の教職員と百数十人の児童生徒が同じ釜の飯を食い、助け合い、学習に励みました。
1949年10月1日の建国記念の祝賀行事を初め、その後の国慶節やメーデー、児童節(こどもの日)などの祭日やイベントでは現地の市民と交流を深めていきました。中でも1951年吉林市第2回中小学校体育大会の小学上級部バレーボールで優勝したり、52年の演劇祭では歌舞劇が高く評価され表彰されたりと、吉林市では「日完小」の名を深く刻まれることになりました。
「日完小」関係者の帰国後
1953年初めになると朝鮮戦争も落ち着き日本への帰国事業も再開されました。「日完小」の生徒数も減少していき、1953年春から「日完小」は帰国する日本人が集結・待機するセンターとなり、その歴史的任務を終了しました。
教職員を含め「日完小」の関係者は帰国後、「赤い国からの帰国者」として色々な差別による苦労があったみたいです。しかし幼少期に同じ学校内で学び、遊び、生活を共にした記憶は消える事のない貴重な体験だったみたいで、日本に帰ってからも同窓会誌「松花江」の発行し、毎年全国各地から集まって同窓会を開いています。父もこの同窓会を毎年楽しみにしていて、出来るだけ参加するようにしていました。
その後
2005年に父が主催して校長先生や同級生など全6人で「日完小」に行ったそうです。吉林市の市政府の歓迎を受けた後、現地に向かったのですが、道路の拡幅や区画整備が進んでいて番地も変わってしまい、近くにあった「神社跡」と思われる公園ぐらいしかわからなかったそうで、付近の住民に聞いても誰一人知っている人はいなかったそうです。ただ、大きな楡の木があり、父はこの木を6年の時に写生したものではないかと思ったそうです。
このページの内容、写真資料の一部は同窓会誌「松花江」から許可をいただき転用しました。ありがとうございます。
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