SPICAの思い出

2023年1月15日

写研-SPICA-資料

父が初めて写植機を買ったのは、吉田鉄工所との労働争議の最中でした。1971~2年ごろでしょうか。中国語の翻訳で知り合ったNさんから中古の写植機を譲り受けました。それがこのSPICA-Sという機種みたいです。写真はありません。
SPICA-Sは写研が1960年代に写植で本文組版を普及させるために開発された本文専用機です。機能をしぼり小型軽量にしたため、狭い家での内職用にも使えるようなり、また企業が大量に購入したりしました。その後、ユーザーの実情に合わせて機能を充実させていき、そのシリーズは小型万能機として長く活躍しました。後の機械にも通じるメインプレートを採用したのもこの機種からです。

写研-SPICA-資料

 

さて購入した写植機ですが、まず中国語の文字盤を買いました。当時は中国と日本の間では民間貿易が盛んになり、日中国交回復の機運が高まり、方々で日中友好協会が中国物産展を開いたり、中国語教室も出来たりしていました。父は写植や印刷には全くの素人でしたが、見様見真似で写植に仕上げ納品をしました。これで中国語の写植が出来る自信がつきましたが、そんなに中国語の仕事はありませんでした。そこで写植の見本をつくり、電話帳で翻訳会社を探し、一軒一軒まわって中国語の仕事を探しました。

そのなかでS社が仕事を出してくれて早速納品しましたが、文字がガタガタでどうしても「やりなおせ」とクレームがつきました。しかし何度やってもきれいに打てません。機械が古くて精度が悪いのです。写植は1/4mm単位で動かすことが出来る精密機械です。長年使ってくると歯車などが摩耗してどうしてもがたつきが出てくるのです。そこで母と相談をして内職で貯めたお金をはたいて新しい機械を購入し、日本語の仕事もするようになりました。それがこのSPICA-Aです。

SPICA-A

SPICA-AはSPICAシリーズの中でも本文にも端物にも汎用的に使えるオールマイティな機械でした。主レンズは20本装填済みで従来機のように大きな見出しもレンズ交換無しで印字する事ができました。メインプレートが二枚装着できるようになり、書体違いの混植が楽になりました。この写植機は、小型かつ安価な万能機で「石油ショック後の大不況時においてユーザーの心理をうまくとらえて、たちまちベストセラー機になっている」(写研『文字に生きる』より)とのことです。
母はこの機械を使いこなすために玉造にある写研へ研修を受けに行きました。私はその時京橋で回数券を買いに行かされた記憶があります。

1980年頃のSPICA

こうして設備が整いましたので日本語の仕事を探しに行きました。当時大阪で一番大きな写植業をしていたK社さんになんとか仕事を回して欲しいと頼みに行きました。社長は気のいい方で試しにといって雑誌の仕事をくれました。しかし打ち上がったのは細明朝の指定なのに中明朝で仕上げたのでした。これでは納品できません。結局細明朝の文字盤を買いやり直しました。当時文字盤は一式10万円位しました。写植には書体がいろいろあることや、写真の現像の濃度などかなりむつかしい仕事だということを初めて知りましたが、なんとか頑張ろうということで一所懸命勉強し働きました。

1980年頃の社内
1986年の社内 ROBO-Xの横にSPICA

父はまだ吉田鉄工の争議の最中でしたので、昼は裁判所や労働組合まわりに奔走し、夜になると母と交代して写植をしました。そして朝一番に出来上がった写植原版を得意先のK社にとどけました。
近所にYさんといって父が鉄工所をしているときからの付き合いのある鉄工所の奥さんが校正や修正の作業を手伝ってくれていました。昔の高等女学校の出身ですから文字とか文章に強いのでおおいに助かりました。友好社の写植の品質の良さは、このYさんのお陰だと思っています。そうこうするうちに、吉田の争議も解決し、日中国交も回復し中国語の友好社に専念することになりました。

これが現在の友好社の始まりです。因みに、会社の名前は日中友好から「友好舎」とつけましたが、後になって「舎」の字は中国では「捨」の字の簡体字と言うことを知り、社名を「友好社」に改めました。

ここまで父の自叙伝を元に書いたのですが、母に確認したら、まず日本語の文字盤を買ってそれから中国語だと言うのです。
● NさんからSPICAを譲り受ける
● K社から仕事をもらう
● S社さんからクレームが来る
● 母が研修を受ける
● 文字盤を買う
どちらが本当かわかりませんが、これら個々のエピソードは本当らしいです。ただ順番がどうなのでしょうか?永遠の謎になりそうです。

写植,

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