中国語の通訳

2022年7月27日

1979年5月 明の十三陵 定陵
1979年5月 明の十三陵 定陵

父は1944年から1953年まで中国で生活していました。ちょうど9歳から19歳までです。祖父に連れられて満蒙開拓団の一員として渡り、敗戦後は日本へ帰ろうとしましたが色々とあってそのまま10年間中国に居たそうです。途中、妹や母、父方の祖母を亡くすなどだいぶ苦労をしたみたいですが、なんとか日本に戻る事が出来ました。
日本では旋盤工として働いていましたが中国語を忘れる事もなく、さらに勉強をして翻訳、通訳家としてその名を知られるようになりました。そのため中国と国交回復直後の頃には数少ない中国語通訳として何度も訪中団、訪日団や来日歓迎パーティなどの通訳をしました。
二回ほどテレビでも生放送で通訳をしたこともありました。

1974年に初めて大阪訪中団として行った時は、大阪市と上海市の友好都市締結のためだったので、上海市で大歓迎を受けたそうです。
随行団の通訳だったため気が楽だったとか、紅旗(当時中国の最高級国産車)に乗った、宴会がすごかったなど何度も興奮気味に話していたのを覚えています。後年になってからもあれ程の歓迎を受けたのはなかったと言ってました。
ちなみに、その後北京にも立ち寄ったのですが、こちらは普通クラスの歓迎会だったと言ってました。

また当時副総理だった鄧小平が初めて日本に来た時、松下電器産業(現Panasonic)を訪れることになりました。その時挨拶に使う中国語を松下社内で翻訳したのでチェックして欲しいと言われたのですが、この文章がまるで友人に送る普通の手紙のような文体だったそうです。
このままでは大変なことになる、下手すると『迷惑事件』の二の舞いだと言うことで大急ぎで書き換えてからバイクで飛んで届けて当日ギリギリ間に合ったそうです。その後、松下の担当の偉いさんが折菓子を持ってお礼に来たこともあったそうです。

写真は1979年5月に日中友好高知翼の会訪中団の通訳として行った時に北京明の十三陵で撮った写真です。

 

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