中国語学習の道

人民服を着た父

父がホテルの警備員さんに入るのを止められた話をしましたが、たぶんその時に着ていた服装がどうもこれみたいです。人民服を着た父の写真が残っていました。まあこの服だったら仕方がないかなぁと思います。それでも服を着ただけでは中国人とは見られません。やはり言葉が問題になるでしょう。

通訳をする父(右から三人目)1978年

父の中国語
父の中国語が家族に一目置かれるようになったのは1970年の大阪万博でした。それまでは開拓団の中で帰国できなかった人たち、いわゆる残留孤児の帰国に向けた支援で手紙などの翻訳をしていました。最初はボランティアだったのですが、無料だと負担が大きいのでちゃんとした仕事としてお金を取るようになったみたいです。ただ、家族の中では「中国語ができるんだ、すごいねぇ」(棒読み)レベルだったのです。

大阪万博中華民国館
それが万博に行った時、中華民国館のスタッフと話をしました。先方の中国人スタッフはきれいな中国語をしゃべりますねと感心されていたそうです。母はこんなに喋れるとは思わなかったみたいで見直したと言ってましたし、姉はお友達に万博のスタッフとペラペラにしゃべってたと自慢したそうです。それ以来、父の中国語のレベルは家族の中でも評価されたのでした。

父の学習方法
父が中国語をどうやって覚えたかというと、9歳から19歳まで中国にいたからです。祖父に連れられて満洲へ渡ったものの、戦後すぐに帰れなかったから中国人の中で生活をしなければなりませんでした。したがって勉強をして覚えたのではなく、生き延びていくために必死に覚えたそうです。食べていくために道端でタバコを売ったり、人民解放軍といっしょに生活してあれこれ手伝いをしたりと、中国人社会の中に入って実践を重ねたそうです。

長春の市場にて 1994年

口喧嘩で負けない方法
もちろん子供時代なので子ども同士のケンカもしたそうです。その時に向こうがあれこれ言ってきてもまだまだ中国語が下手だったので言い返せなくてとても悔しかったそうです。そこである日、向こうの言った言葉をそのまま言い返したそうです。するとだんだん向こうも語彙が少なくなってきたのか疲れたのか、そのままうやむやになって終わったそうです。

長春の市場 1994年

中国旅行で安く上げるには
1985年頃の中国では改革開放に伴い、個人旅行もある程度容認されました。まだ一部の大きな都市だけの開放でしたが誰でも自由に行けるようになったのです。
その時知り合いの大学生が中国を旅行するので中国語を教えて欲しいと言ってきました。特に鉄道の切符を買う時にちゃんと話したいとの事です。なぜかというと、当時の中国では人民料金と外国人料金に分かれていて外国人料金は外貨兌換券でしか払えず、しかも二倍ぐらい高かったのです。大学生の貧乏旅行なので少しでも節約したいとの事でした。
会話は基本
父から、「北京まで、二等寝台車」を完璧に言えても返ってきた返事や受け答えが出来なかったら直ぐにばれるよと言われ、スゴスゴと帰っていきました。言葉というのは一方通行ではなく、人との交流のためにあるのですから当然ですよね。結局、外国人料金での旅行になったけど、中国人との交流は筆談でなんとかなったらしいです。

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