天津はこんな街
私が天津に留学していたのは1986年9月から1988年7月までです。この頃は文革(文化大革命)が終わって10年ぐらいで、人々の生活も落ち着きを取り戻していた頃です。まだまだ素朴な中国が残っている時代でした。そのような時代で天津は当時全国に3つしかなかった政府直轄市(あとは北京と上海。現在は重慶が追加されて4つになった)として非常に重要視されていたみたです。
天津は租界地
天津は租界地が発展した都市なので外国人居留地の洋風建築が多数残っていました。大きなビルだけでなく、一般庶民の住宅も洋風のものがそのまま残って使われていました。今の天津の観光名所として租界地のきれいな建物が映ってますが、当時は住宅難だったので、このような洋風建築の住宅には1つの家に何家族もいっしょに住んでいました。狭い家に多くの家族が住んでいたのできゅうくつな感じだし、洗濯ものが干してあったり白菜が山積みされてたりと、おしゃれとはほど遠いあつかいでした。
天津の気候
天津は海に近いと言っても市の中心部は海から50キロぐらい離れていました。途中に山が無いため海の気候も入っていると地元の人は言ってましたが、それでも乾燥は激しくいつも水分を補給していないと喉がイガイガして困りました。
冬は北京よりましでしたが寒くて、中心部を流れる海河という大きな川が凍って、その上でスケートやアイスホッケーが出来るぐらいでした。86年から87年の冬は地元の人も驚くくらいの大雪になり、10cmぐらい積もりました。いつもは雪は降っても乾燥してるのであまり積もらないそうです。
古文化街は新しい街
私は最初に着いた頃は何もかもが珍しく、とにかくあちこちにでかけて見聞きしていました。古文化街というレトロな建物で作った商店街が出来たのもこの頃です。まだ建設中の建物がありましたが、色々な伝統工芸品や古書、お土産物品などを売っていて、見て回るだけでもおもしろかったです。この中にある郵便局では記念切手も売っていて、よく買いに行きました。今はどうなっているのかとネットで調べたらすごくキレイになってました。ちなみに、天后宮が観光名所と案内されてますが、私がいた時はずっと工事中でした。結局いつ公開されたのかわかりません。
勧業場は中心部
当時の天津で一番の繁華街は勧業場と呼ばれる百貨店のあった地域でした。勧業場は1928年に開業した古い建物ですが、石造りの外観も豪華で租界時代の洋風建築は、神戸の旧居留地にある建物みたいでした。中は古くて暗い感じはしましたが、それなりに品揃えはよかったです。私はこの中でラックスの石鹸を買っていました。
親切な茶葉販売店の店員さん
この勧業場のそばに茶葉を売っている店がありました。天津など北方の人は花茶(ジャスミン茶)を飲むのですが、私はあの匂いがとても嫌いで烏龍茶が好きでした。中国では急須を使わずお茶っ葉を直接コップに入れてお湯を注ぐので茶葉を除けながら飲み必要があります。私は慣れてなかったのでティバッグが欲しかったのですが、烏龍茶のティバッグはなかなか見つかりませんでした。この勧業場のそばの茶店でやっと見つけたのです。それ以来この店にしょっちゅう通い、店員さんと仲良くなって、色々とアドバイスをしてもらいました。帰国の土産に茶葉を選ぶ時、一番良い茶葉を選んでもらい渡したところ、こんな良い茶葉はなかなか飲めないと非常に喜んでもらいました。
北の人は烏龍茶を飲まないの?
烏龍茶といえば面白い話があります。2000年ごろに長春へでかけました。スーパーで鉄観音を買って店員さんに渡すと、値段のラベルには「烏龍茶〇〇元」と書いてあったのです。彼女は「これ間違っている」と責任者のところに行って文句を言ってました。いや、鉄観音という種類の烏龍茶だよと言ったのですが無視されました。しばらくして帰ってきて黙ってレジ打ちをしてました。北方の人は烏龍茶になじみが無いみたいです。
天津での生活についてはまだまだ続きます。
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